堂本剛を見つめた夜

厳かな音楽と鈴虫の声に包まれる平安神宮。風は1ミリも吹いていない。照明と音楽の雰囲気が変わり、ある意味嫌な予感がする。その予感は、拍手で迎えられ穏やかに登場した。姿ははっきりと見えるが、顔や表情や細かい部分はよくわからない。でもあの髪を触る仕草やシルエット。

 

あ...剛くんだ

 

9/12の夜、『堂本剛 平安神宮LIVE 2015』に参加した。というか、参拝した。私はこの夜初めて、堂本剛の姿を捉え歌声を聴いた。その全てが生(なま)だった。二度と無いこの初体験を大切に保管しておきたいので、遅ればせながら記録しておく。ライブの夜にとりあえずぶちまけた自分用メモを参考に書くので、箇条書きみたいに味気ないですがお許しを。それと迷走中のガキなので、中二病なんだかふざけたいんだかよくわからないテンションですがシカトしてください。

 

一度堂本剛に病んだ経験はありつつも、現在は割とちょうど良い温度で剛さんの今を見つめている。なので初堂本剛に踏み込むに際し、理想的なコンディションであったと思う。ただ、去年ファンになったため持っているアルバムは『TU』のみで、今回のセットリストのうち知っている楽曲はたったの一曲だった。しかも「I gotta take you shamanippon」。今回のテーマ『痛み』を受け取るには、初心者の私には何か足りない部分もあった。もちろん曲を書いた当時の剛さんの心の状況とか、どうやってその曲と生きてきたかとか、楽曲の裏にあるものは何も知らない。しかし初めて耳にするメロディーが、初めて膝を突き合わせる言葉達が、すべて目の前の剛さん本人から届けられるという贅沢な時間を大事にしようという気持ちで臨んだ。

 一曲目の「瞬き」。人生で初めて剛さんの生の声を聴く。正直、じわりじわりという実感はさほど無かった。高級スピーカーで歌を聴いている感じ。印象としてはメインの剛くんの声より、自分の左側(私の座席はステージ向かって左寄りでした)から聞こえてくるこだま?みたいな響いて返ってくる剛くんの声の方が残っている。やけに安らかで危険な声に聞こえて、大きく優しい剛くんを感じたため、これは絶対に見てはいけない世界だと思い左側を見ずに唇を噛んでやり過ごした。見ても何も無いけど。

 ずっと剛さんを見つめていると起こる現象がある。空を(宇宙をと言うべきか、剛さんのそういうところが好きです。知らんがな)見上げた時に剛さんの残像が映るのだ。“今剛さんと空間を共有してるんだ...”と実感してしまって、空や木や平安神宮に映る、暗い色で柔らかい形をしたその陰から目が離せなかった。

 「Help me...」の歌い出し。『逃げたいときはどうすればいい?』「もう逃げていいよ...」『君ならどうするだろう』「うーん...どうするかな......」『僕ならどうするだろう』「そうだなぁ...」といった具合に、心の中で静かに会話をする自分がいた。怖すぎる。後で思い出してドン引きした。しかし無意識にそんなことさせるのは剛くんの伝える力なのかなと。

 この辺りから本格的に照明が動き始めて、最後の最後まで美しい景色を作ってくれていた。壮大すぎる照明やスモーク、シャボン玉が彩るステージの真ん中に、小さな剛くんが立っていた。歌っていた。その小ささに何かエネルギーのようなものを感じた。

とにかく目に見える景色の印象が強く、照明とスモーク、平安神宮と木々で映し出される世界は、規模のおかしい万華鏡だった。照明だけを見つめていたくなることが何度かあった。スモークのおかげで燻らせたように溶け合う色が絶妙で、日本のこういう整理されていない味わいが素晴らしいなと、日本人に生まれてよかったと思った。途中、夢の国のスターツアーズを思い出した。あのアトラクションのように、この平安神宮ごと我々だけどこか別の空間に連れて行かれているんじゃないかと錯覚。錯覚といえば、遠くまでまっすぐに照らすライトの、光の放たれる方向を逆に感じることさえあった。つまり、ステージに向かって空から光が注いでるみたいな。自分を現実の世界に留めておくのが大変だった。

 どの曲か記憶に無いが、“ジャラ〜ン”というギターの音を聞き、反射的に頭の中で「アンダルシアに憧れて〜〜」と流れた時には、束の間忘れかけていた“ジャニオタ”という自分の悲しい肩書きを思い出し妙に寂しい気持ちになった。

 描写の話に戻るが、とにかく様々な色や形や光や火や模様が入り混じったり、それぞれが主張したりして、そのどれもが美しく神聖だった。なんか世界中のありとあらゆる神聖なもの達が、あの時だけ剛くんの「19:00集合で〜」という電話一本で平安神宮に集まったんじゃないかみたいな。マジ森羅万象。

 剛くんのギターの音が会場全体を行ったり来たりする場面があって、筋斗雲にのってみんなを惑わす剛くんを想像して楽しんだ。アホ。

 やはりドカドカ盛り上がるライブではなかった。終わってから「はーー!楽しかった!!よっしゃ!明日から頑張るか〜!!」と振り返るような感じは全然なくて。バスドラの音に心臓を揺らされながらも、眠っている時のような呼吸をする自分に気づく。剛さんを見ていても、派手に盛り上げたりテンションをがーっと上げるというより、一個一個噛み締めるような印象を受けた。そんなライブ。だから最後の最後に話した時、すごく優しい声だったけどそれがナチュラルだった。通常のコンサートは、MCに入ると「さっきまであんなに熱かったのに、あっさりしてんな笑」だとか、パフォーマンスと喋りの温度差を多少なりとも感じるわけだけど、そんなのが一切なくて。メッセージの強い言葉をぽつりぽつりと並べていくその温度に、先ほどまでの演奏との差はさほど無かった。優しい口調であったことが言いたいのではなく、それだけ歌と演奏が落ち着いているというか、深ーいところで静かに訴えたり問いかけたりしている感じ。それは力強く、時に弱々しかった。バンドの中心で歌いながらも、独りに見えることさえあった。

 

ライブを終え電車に乗る私が一番に考えていたことは、「もう一度行きたい」だった。それは、楽しくて仕方がなかったからまたこの幸せを味わいたい!という発想ではなく、「よく分からなかった」という疑問が前に出たからだと思う。振り返っても、感情が何かのラインを超えた瞬間は見当たらないし、一滴たりとも涙は流れなかった。しかし何も感じなかったと言ったら嘘になる。ここまでセットや会場の雰囲気など、あくまで描写や光景に胸を打たれた記憶ばかり並べている気がするが、もっと奥の部分はどうだったんだろう。みたいな。正直、剛さんの声や演奏を聴いている心地よさは感じたけど、剛さんの何が好きだったんだっけ?というのがその日一番の感想で。今冷静になって考えれば、それで充分じゃないの?剛さんの歌を聴いて心地よかったのならそれ以上の答えなんてないし、というか答えとか別にいらんわっ と言いたいところだが。平安マジックだかおつよしマジックだかにかかった私は、また一時期のように悩み始めた笑。病み期の私の口癖、お決まり芸の「剛さんが好きな自分が好きなんじゃないか」も脳内で炸裂した。また平安ライブに行くとして、その時私が平安神宮に吸い寄せられる理由は何だろう?剛さんの音楽が必要なの?剛さんの音楽を必要として、剛さんの音楽に救われている人達をその日初めて目の当たりにしたため、そんなことを考えるハメになった(隣の隣の方が、「この人、明らかに今剛くんと魂交換してるやん...!」といった感じの女性だったためその印象が強すぎた)。自分は剛さんが好きだけど、どんな風に好きなのか、本当に好きなのか?堂本剛ファンは堂本剛をどうやって乗り越えているんだろう。どんな解釈に支えられて彼を応援しているんだろう。情報も経験も乏しすぎる私にはその辺りがわからなくて、やはりもう一度行きたいと思った。一回ではわからないことが多すぎた。もう一回行けば何かわかるかもしれないし、十回行っても何もわからないかもしれないが。とりあえずは、純粋に幸せな時間に包まれていたいからもう一度行きたい、と思うようになれるよう、もう一度行きたい。ややこしい。拗らせすぎた。

もう少し拗らせてみることにすると。歌と演奏を聴いていて、自分が他のどのアーティストでもなく、堂本剛の音楽を聴きに来る理由があまりに曖昧だった。好きなジャニーズのタレントがライブをやるから見に行く、なんて当たり前だと言えばそれまでなんだけど、そこに留まっていられないのが堂本の剛氏でありまして。剛さんの音楽が好きなのかな?私がジャニーズ以外で好きな音楽人といえば斉藤和義さんとか。比較しづらいな。比較するものでもないけど。少なくとも、私は音楽を入り口に堂本剛のファンになった人間ではないから、堂本剛が好きだという何の理由も無い(好きなところはあるけど好きな理由は無いと思う)気持ちに寄りかかりながら、今からでも彼の音楽についていくしかないようだ。音楽無しに剛さんを応援しようという発想が無いから。にしても自分の思う堂本剛の音楽の魅力というものが、はっきりとはわからなかった。(しかし「優れたものは無言語」。好きなものは言葉にできない?)←拗らせるの好きだな。

それなのに、最後に『みなさんのこと、嘘なく、愛しています』と剛さんが言った時、彼の正面からの愛を大事に受け止めながら、至極単純に軽率に嬉しくなっている自分を見つけて、嫌になった。剛さんから与えられてばかりな感じが。本編への感想が曖昧なくせに「愛してる」にときめいているのがなんだか嫌だった。自分の安い部分を見た。剛さんの話を聞いていて、本当に欲が無い人なんだなと思ったから余計に。いやしかし、好きなタレントが「愛してる」と放ち「きゃー!」と思う、このジャニオタの生理現象とも言える(もはやそれが仕事)当たり前な行為にさえ、後から自己嫌悪を覚えさせる堂本剛、何者だよ......

そろそろ頭が痛いので、話を変える。『世論では手を合わせる行為をあの人ら大丈夫?って思うかもだけど、奈良で生まれ育った僕にとってはすごくナチュラルなことなんですよ』という剛さんの話を聞いて、剛さんの当たり前は一見特殊なことも多いけど、そんなにかわったことじゃないなと。『広島での授業とか地域によって違う文化が存在するけど、同じ日本人だし、そう変わらないんじゃないかな』って剛さんも言っていたが、多くの国と文化とが混在するせいで、自分以外の文化を否定することの多い世の中が寂しいな〜といった、教科書に書いてあるようなことを考えた。でもこれって理解はしていたけどここまで痛感することは無かったよなーと、剛さんに感謝しました。すごく印象に残っているのは、『これは特別な感情を持っている人がやるんじゃないんです。誰もが思っていること。』という言葉。思わず頷いてしまった。皆が平和を祈っているように、皆がそれを表現したり伝え合ったりできればいいのになと、剛さんに共感した。でも実際は難しいその表現を、容易にではないと思うけどやってしまう剛さんを尊敬する。共感したとか言いながらできていない自分がいることも認めなくては。こういう話はどうしても恥ずかしさとかが付き纏う。この記事だって、誰も読まないとわかっていながら言い訳や言葉の変換を加えながら書いている気が...私は結構重くてイタい人間なのですが(KinKi Kidsファンになるべくしてなっている)、それを表に出すのは照れがあるというか...(何の話だ)

またどんどん頭のイタい話になってきたが、とにかく!剛さんが考えてることとか伝えたいことって、見かけよりずっとシンプルで当たり前なことなのかなって思った。見かけもシンプルにすればいいのに笑。でもそれじゃ堂本剛じゃないな。

剛さんの当たり前が、世界の当たり前になりますように。もっと個人的なこと言うと、剛さんが死ぬ時に見える風景が美しくありますように!!!

そしてそして、この日唯一すっきりしたこと。“依存しないでマン”の行方。散々喋った後に、『今日の僕が皆さんにとって何かのきっかけになればなと思い、生意気ですが伝えさせていただきました。極論言うと、僕がすべてではありませんし、僕の言うことが正しいというわけでもありません。皆さんが自分の中で答えを出してください。』と剛さんが言った時は、「聞いちゃったよ...生で聞いちゃったよ...』とドキドキした。「僕がすべてじゃない」「僕に依存しないで」発言。“人生(生活)においての優先順位”のことだと解釈したこともあったが、やはり彼の場合、精神的な意味が大きいと思う。若干ギクッとする節もあったが笑、『人生一度きりだから、自分を生きて』と剛さんに言われたことになんだか妙にほっとした。自分を生きるから!!だから剛さん、どうか揺さぶらないで!!そこ!!!!

 総括としては、終わってからあんなに穏やかで厳かな気持ちでいるライブは初めてだった。すっきりはしないけど心地いいあの感じ。高揚感は無くとも、もっと体に染み渡る甘いものがあった気がする。

 

地味にシリーズ化しつつある「堂本剛を○○する夜」。それだけ悩ましい夜をもたらす男なんですね〜〜

というかまじで堂本剛ファンどうしてんの!?とか思います。キンキファンになったら皆どうしてんの!?と問いたい。普通に楽しく応援するにはわかりにくすぎるし深すぎて濃すぎて魅力的すぎると思うんですけど!!皆さんこの悩み期?な病み期?な闇期?を最初に通り過ぎるものなのですか??そういうのを経て今日、「つよちゃん可愛い〜〜〜」と穏やかに応援なさってるのですか!?!?一般人から見たら「宗教?中二病??」みたいにも見える彼の表現にどうやってついていっているのですか?(私の場合、もともとの性格が中二っぽくて宗教チックなことの受け入れ体制も万全なので、割とフィットしてる感もある。苦労はしている。)キンキファンになってからつくづくメンタル面の疲れ半端じゃないなと思う。もはや体力。

 

それでは今後、このシリーズが「堂本剛になった夜」で最終回を迎えるという悟りを拓けるよう、精進しようと思う。